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【評論、ブログ運営】データと情報と評論・私見の分離

現代は情報化社会と言われ文字通り情報が溢れています。

この情報という言葉は曖昧さを持っており、多くの定義付けができます。

本記事では情報とデータと評論・私見という言葉について各々定義し、その性格の違いと分離して記載する大切さについて評論・私見を述べていきます。

 

 

情報とデータの定義

Wikipediaによると「データ」とは「伝達、解釈、処理などに適するように形式化、符号化されたもの、または再度情報として解釈できるもの」という定義付けがされています。

 

「データ」を定義するに当たり「情報」という言葉も出てきました。

本記事では「情報」はデータの中の問題解決に役立つ値という定義付けをします。問題解決に役立つという観点、すなわち同じデータを受け取ってもそれを「データ」と解釈するか「情報」と解釈するかは受け手にとって意味があるか否かによって分かれることを意味します。

 

例えばある野球のピッチャーの投球速度が150km/hだった場合、「150km/h」はデータです。あなたが野球のバッターでこの球を打ち返す試行をする場合、この「150km/h」は情報になります。野球を全く行わない人に対しては「150km/h」は情報のままです。別の言い方ですと「情報」は「データ」の受け手が考え・思考を使用して「データ」を解釈したものです。受け手にとって価値があるデータでも、そこに思考・考えることを介さなけば情報には成り得ません。

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図1、データと情報と評論・私見 分類および変換プロセス

 

また「データ」は受け手に依存せず、その中身は変化しないという性質があります。

誰にとってもある野球のピッチャーの投球速度が150km/hだったということは変わりません。

 

評論・私見

評論とは「データ」を受け手が「情報」として解釈し、そこに評論者の嗜好・価値観を付与したものと定義します。

すなわち元のデータから2段階の処理を経ています。評論を解析する場合は、発言者の嗜好・価値観を理解し、「情報」に還元してから理解するプロセスが必要になります。

何故ならば受け手に取って意味のあるデータは「情報」であり、「評論」ではありません。

 

「私見」という言葉も基本的には「評論」という言葉と同義語で情報に評論者の嗜好・価値観を付与したものと定義できます。

 

評論、本ブログの運営

私事になります。

私は趣味としてブログ執筆を楽しんでおり、いわゆる評論・私論を書いています。

評論・私論を書くためにはどうしてもデータ、情報が必要になりネットサーフィンをしてデータ、情報をかき集めてきます。

 

そうして完成した記事はデータ、情報、評論・私論が混在したものになっています。

これは受け手の方に取って好ましい形ではありません。何故ならば文章を読む上でデータ、情報、評論・私論を分別し解釈する手間が増えるからです。また受け手に意図しない誤解、不快感を与えるリスクも増してしまいます。

 

この事に問題点を感じた私は記事の章のタイトルに「私見:~」というフレーズを入れて、データ、情報、評論・私論の分離を心掛けてきました。しかし、まだこれらの表示は十分ではありません。

また可能であれば記事内で分離するよりも「情報」の記事と「評論・私見」の記事での分離ができればとも考えています。

 

未熟な私ですが、今後一層読者の方々が読みやすい書き方を学んで、「考えを提供できる」、「リテラシーを上げることのできる」記事を提供できることを目指していきたいと思いますので、良ければ応援よろしくお願いします。

 

参考記事

データ - Wikipedia

事実 - Wikipedia

評論家 - Wikipedia

私見とは - コトバンク

ニュース - Wikipedia

 

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